「楮を刈りとる」 芹沢けい介


  昭和37年5月末から65日間、本業である鳥取の紙すきから一時的に離れ、東京の旗の台の親戚の家からの通いで、蒲田の「芹沢けい介染色研究所」で研修生として過ごすこととなります。通いの道の脇に生える草までも「めでたい、めでたい」と僕に歌いかけているように見えたものです。
  実は、その前年から年初めにかけて、母を含めた僕にとって大切な身内が4人もたて続けに亡くなり、僕の紙漉の仕事に喜んで見守ってくれる人を失ったので、少し塞いでいたのかもしれません。でも落ち込んでいたのとは違い、もっと勉強したいという思いのほうが強く、鳥取市内の吉田璋也先生に相談に上がりました。
  染色を勉強したいので京都大学のある教授を紹介して頂きたいと申しました。吉田先生は芹沢先生がよいと言われ、 5月3日の高野山で勤められる柳宗悦先生の一周忌の法要にご一緒し、芹沢先生を紹介して下さいました。芹沢先生は僕の顔をみて一言、「いつでもいいよ。」と、おっしゃって下さりました。すぐに仕事を留守にする間の段取りを番頭に伝え、僕は東京へ向かうこととなるのです。
  工房初日、20人くらいの人がいました。始めは、僕は何をするという具体的なものは何もなくて、工房での仕事の手伝いや朝一番の掃除をしていました。中学生の時分、寺に預けられていたのでこういうことは得意なんですね。
  しばらくして村の妙好人源左の33回忌に備え、ポスターの制作をすることを決めました。南無阿弥陀仏と蓮の絵をモチーフに下絵を描いていると、弟子の一人がとても熱心に教えてくれましたし、先生も所蔵の蓮の絵の軸をたくさん掛けて下さいました。
  その後、鳥取に戻り、新しい和紙を開発するたびに上京して芹沢先生のところへは再三通って、紙を見てもらいました。先生には会うたびに様々なものを見せていただいたり、いろいろなものをいただきましたね。そのなかのひとつが、この「楮を刈りとる」です。
  和紙の原料となる楮は、木そのものを根倒しにはしないけれど、絵に描かれているのは確かに楮の命をいただく瞬間です。
  紙になるためにうまれてきたこの楮のエネルギーが私を動かし、柳先生、芹沢先生、吉田先生をはじめとするいろいろな人たちとを巡り合わせてきました。そんな自分を超えたはからいへの感謝を日々新たに、それがこの「楮を刈りとる」なのです。